なぜ神は微笑み、大笑いしないのか

おはようございます。

星見です。

SNSでこんな文言を見つけました。「なぜ神は微笑み。大笑いしないのか」

それは、笑いの本質が、暴力や悪意であるからだろうと思うのですが、逆にこれは、人間の持つ神へのイメージをつかみ取るには、大変面白いと思います。

神学的には笑いはむしろ「愛」「喜び」「赦し」の表現という話もあるそうなのですが、本質的に暴力なものを、無理矢理「愛」だの「喜び」だの「赦し」だの言ってるのは、宗教側の都合であるように思います。

笑いはむしろ「愛」「喜び」「赦し」の表現という前提に立つと、必ず、それは低俗なのか、高貴なのか、などのカテゴリーに分けられるからで、それは支配構造を持つことになるからです。

宗教指導層が選ぶ「許容された笑い」は、権威と一致し、「非許容な笑い」は境界外とみなされ排除されうるということですね。

そして、これはあくまで人間的な行為なので、神が人間を超越していないという結論になってしまいます。

ここで、微笑みと笑いの違いをChatGPTに図を作ってもらいました

項目微笑み(Smile)笑い(Laugh)
なし(無音)アウドブル、声を伴う
感情の質穏やか/好意/礼儀驚き/緊張緩和/共感
社会性個人的・場面を選ばず可能社交的・集団形成で活性
生理的効果幸福ホルモン分泌、免疫改善緊張緩和、共感共有、健康上の利得
進化的起源恐怖の軽減 → 友好表現遊び声 → 緊張緩和・集団コミュニケーション

微笑みは個人的、笑いは社会的なのでしょうか。

微笑みの方は、あまり言語的ではない表現のように感じます。これは、笑いの本質が悪意や攻撃になるのに対して、微笑みの本質は、中々つかみづらい。

単なる感情の鏡以上のものであり、社会的文脈と個人の役割に応じて機能する。感情を超えて、自分や他者との関係を調整するために、無意識に、あるいは意識的に現れる表現といえます。

言語とはおおよそ記号なので、確かに微笑みの方が非言語的表現だとするならば、人間の思考からは分断されていて、神的なのかもしれません。

という事は、毎日笑顔で微笑んでいれば、神的なのであるという結論に、安易ですが行きつきそうです。

天国は、笑いなんかない、微笑みしかない場所なのかもしれません。

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