皆様、おはようございます。
星見です。
今回は富について考えていくわけですが、皆さん富んだ生活がしたいですよね。
そりゃ、誰だってお金が欲しいですよ。僕だってそうです。
まぁ、しかしちょっと聞いてください。
そもそも、富というのは何なんでしょうね。東洋占術的には、官とか財とか富貴と呼ばれるものなのでしょうが、これを官職とかお金などにしか頭が働かない所に、自分の限界を感じますね。
もっと何か違う事をおもうのですね。財は物質、食傷は行動、印は受容、官は制限、比劫は我々など、これは単なる例えなので、占いをされている人は参考にしてはいけませんが、産む、制限、我、育つ、成長みたいな五行的なイメージとか、色々考えてしまいますね。
そもそも、お金が儲かりますよなんて、星々が言ってるわけはないのですが、結果的に占えばそうであるのですが、これを言語化するのはとても難しそうです。まぁそれが占いなのですが
このクッソ暑い日に太陽の真下にいたら、溶けてしまいそうな感じなどを例に、今の自分にどのような角度で何がどうなっているのかを感じる感覚が大事であるようにも思います。
少し話はそれてしまいましたが、その感覚を人間社会に当てはめて考えられてきているわけですが、そもそもその財というのは、有限なのか無限なのかなどを考えると、途端に訳が分からなくなります。
財をお金と表すのであれば、それは有限なものになってきます。
有限なものという事であれば、その財が自分のところに来るのであれば、誰かの財は当然無くなっているわけです。
それが、生生流転の法則でありますよと言われればそうなのですが、
お寺や神社などで行う商売繁盛などの祈祷は、基本的に危ない行為でありますね。人の物を奪っている可能性がありますし、そもそも財を持ってない人がいくら祈祷しても無理な物は無理なのかもしれません。
商売繁盛の祈祷は、どこかで貧乏人を作っているという事です。
祈祷をしている人は、何かに守られているから良いのかも知れませんが、依頼者は何にも守られていないですね。
皆様、色んな所に行って、神頼みをする際は、無限なものにした方が無難であります。知らんけど。
そもそも、自分の物と言い張っているだけで、自分の物である保証はどこにもないのですが。人間の感情は違いますね。
この富を、有限と思うのか、無限と思うのかによって、かなり違いが出てきそうです。
私的には、有限ではあるが、各個人が全ての富を掌握できるほどのスペックをそもそも持っていないので、無限であると思っています。
でもどうして、こんな事を考えるのかというと、そもそも、人間のスペック自体にそんな違いはないのですよね。
私なんかの男性は、大体平均身長は170㎝くらいだと思いますが、3倍、5倍の人間なんかほぼいないです。
恐らく、私が100mを走っても、ウサインボルトと3倍スピードが違うなんて事はないんですね。
ご飯を食べれる量も、みんな対して差はないです。
しかし、お金は違いますね。これってものすごい面白いですよね。一般成人男性と大谷翔平の違いなんて、人間的な基本スペックではほぼ変わらないですが、あっちは凄いです。千倍、万倍の単位ですね。
凄く不思議な感じしませんか?私はします。
頑張ってるからでは説明できませんね。頑張っても無理な物は無理です。
ちょっと見方を変えれば、対してスペックも変わらないのに、一方は超貧乏で、一方はアホほど金持ちという状況はかなりねじれている世界であるように感じます。
財が有限とみれば、結局は限りあるものの分配という話になるのですが、アホほど金持ちなのは、貧乏人がいるからで、ものすごい金を持っているという事は、その裏で苦しんでいる人は沢山いるという理屈になるからです。つまり、社会を形成するなら、金持ちには責任が発生しなければ、どこかで壊れるのは、小学生でもわかりますわな。
であれば、占い的に財が強い事が本当に良い事なのか。富を求めることが本当に良い事なのかは良心によるとしか言えません。
強い人は、弱い人を守るという話と似てますね。
鬼滅の刃的に言うと、煉獄さん的な(鬼殺隊)的な思想と猗窩座(鬼)的な思想とも呼べると思います。勘の良い人であれば、鬼滅の刃は、日本のトランプ現象だと言えなくもないと思います。
また、話がそれましたが、富について、それが本当に良い事なのか、どうなのかは正直分かりません。
では、感情はどうでしょうか。喜怒哀楽は有限でしょうか無限でしょうか。
ラッキー、アンラッキーは有限でしょうか無限でしょうか。
誰かに嬉しい事があれば、その逆に悲しい事がある人が発生するのでしょうか。
良い事が、ある特定な人に集中して、悪いことが、ある特定な人に集中したりしてないでしょうか。
結局長いスパンでみると、0に収束してい行きそうな感じもしますね。
とりあず、0を無限と仮定すると、無限の物にたどり着くためには、有限性を捨てなくてはいけませんが、それは思考なのではないかという事を言いたいだけでした。