皆様、おはようございます。
星見です。
無我無我ゆーとりますけども、皆様いかがお過ごしでしょうか。
この問いは大変難しいですね。
唐突に話ますが、無我って仏教用語?だと思うのですが、日本人って多分、これをかなり高い水準で持っている民族かと思っています。他のアジアの国は知りません。しかし恐らく仏教をかじってるとそうなるのでは?なんて考えたりもします。
まず、主語が無くても通じますね。
他にも、例えば親から「ごはん出来たよ」と嬉しい言葉を言われた際に、相手にも言ってるし、自分にも言ってますよね?一緒に食べるんでしょ?
外国語にあまり明るくありませんが、英語などは自分と相手、第三者を明確にしている印象を持っています。
話者と聞き手が同時に存在している感じがします。
敬語なんて、即座に相手の存在を強くし、相手との距離感や役割を与えるもの、ではないですか?
答えは知りませんが、私は二人称しかないと思っています。
他にも、死についてですが、私自身、死について自覚できる事はありません。私に死が訪れるその瞬間までは、私ですが、死が訪れた後は、私ではありません。もっと言うと、私を私たらしめる定義なんて曖昧なものなのですが、今回は置いておきます。
また、これはちょっと言い方が難しいですが、私とアナタ以外の関係の死については、関係ありません。知らない人が死んでも関係ないのです。日本が他国についてあまり興味がないのがその現れだと思っています。イエモンがJAMで歌ってた歌詞ですね。
これは前回の罪悪感の話ですね。今回は置いておきます。
つまり、死はアナタ(二人称)にしか関係ないのです。という事は、死は私の物ではなく、アナタの物です。
関係しかないというやつです。
昔サンデル教授が、日本人に人生でやりたい事を書いてというと、2,3個しかなかったけど、アメリカ人は紙が足りないくらい書いたみたいな話もあります。
他にも「我」や「汝」なんて言葉は、自分であり、相手の事だし。
二人称ではなく、互いに共に在るという感覚なんだと思います。関係とか縁という感覚なのかな?
そもそも他者がいないと主体性なんてないですしね。また相手無しでは、倫理も道徳も関係ありません。
日本の昔の和歌なんかで、二人称表現を調べると面白そうですね。
なんか、急に出会った二人が、相手を見ながら音楽を奏でて、お互いがお互いを引き立てるみたいな感じが本質なのかもしれません。どうやら相槌が多い民族らしいしね。
私は言語学者ではないので、信じてはいけません