おはようございます。
星見です。
前回、祈りは未来に対して行っているという内容で終わったと思います。
しかし、ここで1点不思議な事が起こります。
祈りは未来に対して行っているに対して、仏像は過去のものです。
既に作られた過去の物体に対して、未来の祈りをすることに、どこか矛盾を感じます。
祈りを行う「対象」は過去の物であるのに対して「意識の方向」は未来でありあべこべなのです。
しかしここで問われるのは「見る」という行為。見るという行為自体が過去を見る行為です。
これは、物理的に目に飛び込んでいる情報は、過去のものであるからです。
もはやタイムカプセルです。過去の意思が現代によみがえってるわけですからね。
しかし実際には矛盾していないと考えます。
過去に作られたモノを通して未来へのチャンネルにアクセスしているという事でいいと思います。
ここで気になる事が出てきます。
これでは、過去に向かって手を合わせ、未来に意識を伸ばしている。では神様はどこにいるでしょうか。
神様と接続できている感じが全然しません。どこに神様が介在する余地があるでしょうか。
そもそも神と接続するということは、一体何を表しているのでしょうか。
神様と接続できないのは、我々が神様を他者や相手であると思っているからであると思います。
他者や相手である以上、その祈りの構造の中に入る余地はありません。
それは、今まで説明してきた通り、祈りは過去と未来を時間をまたいで循環しているだけであるからです。
そもそも、神様と接続するという発想自体が間違っているのかもしれません。
そこで、構造自体が神なのだと仮定します。
この構造自体が神だとすると、私たちはそこに関与していることになるわけです。
つまり、神が他者であると仮定すると起こる問題として
①神はどこかにいなければならない
②そこへ接続しないと分からない
③つながる、つながらないとい問題が出る
という事が発生し、祈りは神様への通信作業となります。
次に、神様を構造として捉えます。
人間が、不安や意味、未来などに向き合う時に必ず現れる構造です。
すると①神はどこかにいなければならない⇒自分の中にいる
②そこへ接続しないと分からない⇒そもそも外にいないので、接続問題も解決する
③つながる、つながらないとい問題が出る⇒②と同意です。
すると、祈りは接続であったものが、自分の時間的意識を編成しなおす行為になります。
これは、神様への接続不要で、とても便利ですね。
バラバラであった時間を一つに揃える事が祈りとなります。
これは神様と接続するという意味ではありません。
祈りによって、今の私が、過去を使って、未来へ一つの筋を通すということです。
これの良いところは、どれだけ過去が最悪であっても、自分は幸せになるからです。そしてこれは死後の世界まで適用可能であるという展開を迎えています。
この辺は、あまり詳しくないですが、曼荼羅とかいう構造もこういったものではないかと勝手に推測しています。
すると仏像というものは、それ自体が神なのではなく、その神と呼ばれる構造に入る為の装置であるという風に捉える事ができます。
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