皆様、おはようございます。
星見です。
前回の続きです。
ちょっと文章の構成がおかしいなと思い、時間がかかってしまいました。すみません。
愛とは一方通行である。この件について考えていきます。
前回の結論ではこうです。
愛はただ存在しているものであって、自由でも孤独でも善悪でもなく、単に一方通行で、承認も責任も伴わない。
これは、私の神様や先祖に対する感覚ととても似ています。
まず一文字ずつ見て行きましょう。
自由でも孤独でも善悪でもない:ただ存在しているので、そこにある
一方通行である:単に一方通行なので、届いているかすら関係ない
承認は無い:相手の評価や善意は関係ない
責任も無い:義務もなければ結果すら関係ない。
愛は、その存在している状態みたいなものではないのか。そう思います。
もう少し続けます。
愛を感じているという事は、一体どういう事なのだろうか。
今までの話が本当なのであれば、普通私たちが感じている愛についてのほとんどが、今までの話の限りではないので、これは本当の愛ではないという話になる。
しかし、愛を感じるということも事実であり、否定できないし、否定したくない自分がいる。
では、愛をどう定義すればいいのであろう。
ここで着目したいのは、やはり無償の愛のシンボルである母性である。
子供に対して、メリットやデメリットは関係なく、愛という物を注ぐ対象として子供を育てているその様について、子供目線で考えてみる。
子供は、それをあたかも当然のごとく振る舞う。これは愛を感じているはずなのに。
その子供も、成人し大人になり、あるときふと、自分は親に愛されていたと感じる。
しかも、色んな場面で感じるものである。
感じる愛というものは、普段は自分の表面には出てきておらず、心の中にしまってある。
それがある条件を満たした時に、表面化してくる。
これは、愛を感じるという事は、愛が生まれる事ではなく、すでにある愛に自分が気づいてしまった感ではないでしょうか。
愛は関係ではなく、状態であるというのが結論です。
両想いとは、2人が安定している関係を示しているのであって、愛が生まれている状態ではないということです。
愛は相手によって生まれてくるものではなく、自分という存在の在り方によって生まれる物であるという話です。
次に続きます。