真に自由になろうぜ⑧

皆様、おはようございます。

星見です。

前回の通り、言葉を無くすというのことについてお話をしていきたいと思います。

そもそも、なぜそんなことが必要であるのか?とも思いますが、真に自由を目指す上で欠かせない内容となっております。

言葉というのは非常に便利ですし、厄介なものであるのですが、それに自分自身が振り回されているようでは、なかなか厳しいのではないかと思います。

逆にそれが分かれば、言霊や呪いの類の問題なども含め、多くの事を解決できます。また軽いトラウマ何かにも有効なのではないかと個人的には思っています。医者でないので確かなことではありません。

前から言っている通り、言葉というのは単なる記号であるというのは、このブログを見ている人には、周知な事実かと思いますが、リンゴという言葉を言われても、頭の中のリンゴは人それぞれ違うというあれです。

私たち、愛し合ってるんですと言われても、それぞれの愛の感覚は違うはずですね。

つまり、言葉というのは本来、皆が一緒に生きていく上で、必要ではあるが、本質ではない物という認識が必要です。

しかし、人はその言葉に振り回されます。

ここで、AさんとBさんという2人がいるとします。

AさんがBさんに嫌いと言ったとします。

Bさんからすると、Aさんがどういう意図でそれを言ったのかは分かりません。何となく嫌いという方向性は分かりますが、その強弱や重みなんかも当然不明です。

でも、人は、その全く訳の分からないものに悩んだりします。私は会社で学校で嫌われているとか思っている人もいるのではないでしょうか。

実際に色々と嫌な事をされているかもしれません。しかし嫌がらせをしている人達の思いを知る由はないのです。でもそれはなぜか、当の本人目線で見る必要があります。

では、Aさん目線で物事を見てみます。

AさんはBさんに嫌いといいましたので、その理由を聞くと、色々ありすぎてキリがないのかもしれません。たった一つなのかもしれません。それぞれにある個別具体的な問題を嫌いという言葉で総称してしまう行為は、思考停止でしょう。いやな理由が個別具体的に一つづつあるのであれば、それを解決すれば簡単なのですが、実際は問題をややこしくしています。

それは、嫌いという言葉でそれらすべてを総称しているからです。

相手が、良い事をしてくれたとしても、嫌いであるという断定が、それを許容しません。むしろ嫌いがますます増幅し、何をしても嫌いであるという結論を導き出します。

鑑定をしていると、過去にトラウマを持っていらっしゃる方が多数います。

親を憎んでいる人がいた場合、そのトラウマから導き出された嫌いという結論は一生付きまといます。親がしてくれた全てが自分を攻撃しているものであると思うようになるのです。妄想の領域はどんどん拡大されていき、自分も親にななった後も、子供に対して同じような事をしてしまったり、反面教師になったりするのですが、それも全て妄想が作り出した現象である可能性があります。

これは、良かった事でも悪かった事でも起こります。

実際に、アメリカでは成人後、親に向けて裁判する人が増えているというのも聞いたことがあります。あれはネグレクトだったという事を信じた人達が、今まで親にされていきた事をネグレクトと結びつけて解釈できるそうです。もちろん弁護士や精神科医、団体なのどはそれを分かってて、当事者をそうであるように説得するわけです。本当にそれで悩んでいる人がいるので、一概には難しい問題ですが、数があまりにも増えているというのは何かがあると見る方が正しいでしょう。

あの国の家族崩壊にかんしては、それはそれで面白いのですが、今回は関係ないので割愛します。

あなたがムカついたとしましょう。すると相手の嫌な所がどんどん出てきます。でもそれら全てが、今この瞬間的にムカついている事とは、何の関係もありません。上司に怒られて、家に帰ってしょんぼりみたいな事は、実は意味不明なのです。

家に帰ってお風呂に入ってる時には、全く関係ないのですよね。今この瞬間に関係ない事を考えてしまうのは、ただの妄想となります。そして妄想が固定化し、まるでそれが事実であるかのように働くのです。

一度ムカつくと決めてしまえば、それが覆ることは容易ではありません。

つまり、言葉というのは、本質は分からない物であり、何かを固定化させるものであります。

それを解消するためには、ずっと問い続けるという過酷な、哲学者のような日々を過ごさなくてはいけません。物事を固定化させず、絶えず自分の中で問い続ける事をしなくてはいけないのです。

それは、それで素敵なことだと思います。ただ、私の経験上友達は減ります。みんなが盲目的信じている事になんで?となりますから当然といえば当然です。

しかしこうも考えることができます。

私の事が嫌いなのだ、という結論を出した場合には、全てがそういう世界に変わるのであれば、

私の事を愛しているはずだ、という結論をだした場合には、どんだけ嫌な事をされても、私の為にしてくれてたんだという世界になるはずです。

これは、私という世界をどう作っていくかは、あなた次第であるという事です。

つまり、物事を積み上げていくのではなく、結論ありきで物事を進ませることも可能になるということで、それは時間の概念を超えています。

よく感謝の言葉を沢山言いましょうみたいな事ってありますが、結局はこれです。現実は一緒かも知れませんが、自分の見える世界が変わると、その後が変わってきます。

なので、少しずつでも良いので毎日ありがとうと言い続けた方が良いのです。するといつか必ず、自分が見えている世界がこんなにも素晴らしい世界なのかと思える事でしょう。

あなたの今までの人生は、卑屈で苦しいものであったとしても、それを超える程の感謝の言葉が、あなたを変えるのです。

司法試験くらいの勉強時間、卑屈に使ったのであれば、それ以上感謝の言葉で埋め尽くせばいいだけです。

人に何かを発する際、それが相手にとって一生残る可能性もあるということです。また人に発したその一言さえも一番聞いているのは自分であるというメカニズムになります。相手にだけでなく自分にも残るので注意です。

普通の人はこれで十分です。十分すぎると思います。

まさに言霊ですね。呪いでもあります。

ただ、真に自由を獲得するためには、それでは足りません。というか方向が違います。

真に自由を得るためには、言葉に頼ってはいけません。

その為にはまず言葉にしない事です。小田和正的には言葉にできないです。正しくは殆どの事は言葉にできないのであるが、無理矢理記号を使用して表現しているに過ぎないという事です。

先ほどのAさんBさんの例で言うと、嫌な事が個別具体的なままにしておくことが重要で、それを嫌いと断定しないことです。言葉にしないというのは、口から発せられることだけでなく、頭でも思わないことになります。

自分が嫌な事があった時、それをいちいち言葉にすることな眺める事が出来れば、いいです。

過去の記憶に対して、あーだこーだ思ってしまう。言葉にしてしまうと。それが固定化します。すると、それが自分の真実となってしまいます。

一度やってみると分かるのですが、嫌いと思った時に、人は勝手に意味を持たそうとします。理由付けが始まります。

私は豆腐が嫌いでした。今はもう食べられるのですが、勝手になぜ嫌いかを脳が考えてしまいます。すると豆腐味わう事はしません。ゴキブリが家に出てきた時の皆さんの反応と似ています。

逆に物事を深くじっくり考えたい時は、勝手に考えてくれるので、脳は色々便利です。

ただ、自分が毎日感謝の言葉を述べ続けるだけで、自分が見える世界が変わるとしたらどうでしょうか。まだ今よりマシな世の中と呼べるのではないでしょうか。

毎日が苦しい人は、そこから始めるのが良いかと思います。

真に自由を求めている人は簡単です。日常で言葉にする時間を減らしていくだけです。つまり何も思うな感じろです。するとあなたは、圧倒的な沈黙を手にします。それが自由の入口です。

こちら側の自由の良いところは、沢山ありますが、それはいつか話す事になると思います。

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