皆様、おはようございます。
星見です。
一日の中で、数秒でも数分でもいい。
圧倒的な静寂を得ることが出来れば、もう良いのではないか。どうも星見です。
前回の祈りに通ずる話です。
圧倒的な静寂そのものが祈りであるわけではなく、祈りという行為自体が、圧倒的な心の静寂に溶けていくような感覚です。
祈りが最初は「何かを願う行為」であったとしても、それが「他者のために」や「感謝」へ広がっていくとき、祈っている対象も消え、祈る主体さえも消えていき、ただ在る事だけが祈りになる。
そんな感じです。
祈りが純粋化し、行為から在り方へ変わる姿であるわけです。
この行為と在り方という違う二つの違うものが、陰陽であり、そして人間であり、世界であり、世の中であるという風に捉えます。
人間がいかに矛盾した生き物なのかは前回話した通りです。そしてそれは、人類が言葉を獲得したからではないかと言いました。その矛盾に一つの線を通し連結させる行為が祈りであるわけです。
ただ、在ることだけが祈りとなった時、祈りと呼ぶ必要もない、圧倒的な静寂としてあらわれます。
祈りが、「行為」から「状態」へ、さらに「場(空間)」へと変化していく過程であるわけです。
自力から他力へ、能動から受動へ、利己から利他へ、そして最終的には静寂としての空間となり、それはもう祈ってはいないのに、既に祈っている状態であるという解釈です。
祈りという輪郭も、ぼんやりと消えていきそのものとなる。
ただ存在しているだけで、世界が静かにそれに応えている。
一日の中で、一瞬でも良い。そんな瞬間が皆様に訪れますように。