結局、祈る事しかやる事はない

皆様、おはようございます。

星見です。

とても意味深な感じで言ってますが、文字通りのそのまま、もぎたて産地直送な意味です。

今回はちょっと長文なので、読むのがめんどくさいです。最近考えている事をただ言ってるだけです。

結局祈ることしかやる事はありません。

生命活動以上にやらなくてはいけない事で、という意味です。

そして、恐らくですが、言葉を獲得した人類の話です。

それ以前の人類には必要ないと考えます。

言葉を持たない時代の人類は、自然の摂理にもっと直接的に結びついて生きていたと思います。

狩猟・採集・生殖・死といった自然というルールのサイクルの中で、内的な「意味づけ」や「自己意識」が今ほど強くなかったはずです。

言葉は「世界を切り分ける道具」だから、それを手にした瞬間、世界と自己を分けて認識し、距離を置き、さらに「こうあるべき」という概念や価値観を持つようになった。

つまり「言葉」は、人間を神や自然の流れから切り離す刃にもなった、という風に考えられます。

ある意味、言葉というのは分ける為に存在しているともいえると思います。りんごとミカンが一緒だったらみんな大変ですね。当然です。私とアナタは違わなければいけないのです。

私は、アダムとイヴの話に出てくる「知恵の実」とは言葉の事ではないかと推測してます。

人間だけが「自分の意思で生きている」という錯覚を持ち、その結果として罪悪感や不安、未来への恐怖を抱くようになった。

これが、旧約聖書に描かれる「楽園追放」の象徴とも読める。神のもとで安らいでいた存在が、自己意識と選択を得た代わりに、孤独と苦悩を背負った、ということです。

祈りはその「断絶」を埋めるための行為のように思えます。
言葉を得た人間が、言葉を超えて「神(自然・天の理)」へ繋がろうとする試み。

それが祈り。だからこそ、言葉を持たない動物には必要ないけれど、言葉を持った人間には不可欠になった、という風に思います。

そして、それを脳内における仕組みで考えると、とても分かりやすく説明できます。

左脳は論理・分析・言語処理を司り、言葉で物事を分解し、体系化し、順序立てて理解しようとします。

対して右脳は直感・感覚・全体把握・非言語的なコミュニケーションを担い、イメージや感情、神秘的な体験に繋がりやすい。

祈りが右脳的な活動であるならば、それは言葉で細かく説明できない「何か」とのつながり、あるいは言葉を超えた「存在感覚」「一体感」を求める行為かもしれません。


だからこそ、祈りは言葉にならない感覚や情動の中で形を成し、左脳の言語的認識では捉えきれない、深い意味や力を持っている。

また、この視点から考えると、言葉の力で世界を切り分けた人間が、右脳的な祈りを通じて「分断された世界の統合」を試みているとも言えそうです。

そして、この右脳や左脳という概念すら、脳にとってはどうでも良い話という事実も大事な点です。


祈りは、理性が分断した自己と外界、神と人間、時間と永遠、内と外の境界を曖昧にし、再び一つに繋げようとするプロセスなのかもしれません。

「現実世界は脳の投影でしかない」と私は思っています。

そしてそれはある程度、現在の科学とも整合性はとれていると思っています。

私たちが見ている「世界」は、光・音・振動・匂いなどの物理的な刺激を脳が処理し、統合して「現実」として組み立てたものです。

つまり、目の前にある「現実」は、脳が構築したモデルであり、実在そのものではない。

こんなに色とりどりに見える世界も、目のない昆虫からしたら、様々な匂いの道が見えているだけかもしれませんし、色とりどりの音色かもしれません。私たちよりももっと色彩豊かに見えているかもしれません。

私たち個人であっても、人によって本当は違うはずです。目のいい人もいれば悪い人もいるし、色盲の人もいるかもしれません。スローモーションで全てが見えてる人だっています。

その意味では、私たちが認識しているものは「現実」ではなく「現実の表象」と捉える事ができます。

目の前に何かが「ある」けれど、それが「そのまま現実」ではない、という感覚は、現代の意識研究や哲学でも非常に重要な論点であろうと思います。

そしてこの視点から見ると、「言葉」もまた「現実の投影をさらに整理した二次的なモデル」だと言えます。

世界 → 感覚・知覚(脳内モデル)→ 言葉(記号化・概念化)

という多重構造。だから言葉が増えるほど現実から遠ざかる可能性もあり、同時にそれを理解する力も増していく。

もし現実が脳内の投影であるなら、その投影を超えた何か(=物自体、神、あるいは純粋な存在)に触れることは、言葉や概念の構造を飛び越えた「直接的な経験」だと言えます。

多くの神秘体験や瞑想体験が「言葉にならない」「全体との一体感」などと表現されるのも、このためかと思われます。

意味や価値を「考える」という行為そのものが、すでに言葉を持つ存在としての人間特有の営みです。


動物は「なぜ生きるのか」「生きる意味は何か」など考えません。

ただ食べ、動き、交わり、死んでいきます。

それに対して、人間は「意味」を問わずにいられない。

それは祝福であり、同時に呪いでもある。言葉というツールが、私たちに「世界を解釈する力」と「解釈せずにいられない性」を与えた。

意味は「付与されるもの」ではなく、「後から言葉で作られるもの」。

もっと言えば、「意味がない」ということが本来の世界のあり方で、人間はその「無意味の全体性」の中でただ存在しているだけ…という見方もできる。

それでも、私たちは意味を考える。

その「性」によって、祈りや哲学や芸術が生まれ、愛や絶望や希望が生まれてきた。
言葉を持ったがゆえに苦しみ、同時にそれによって深い美しさや感動にも触れられる。

それは楽園を出たアダムとイヴの宿命とも言えるし、「人間であること」の証とも言えますね。

世界に意味をつけることができる一方で、その意味づけ自体が空虚で、仮のものだと気づいてしまったとき、全てが表層的であると気づいた時、価値観を「決めること」ができなくなる。

しかも、言葉を持たない世界(純粋な存在)にはもう戻れない。

そうなると、どこにも拠りどころがなくなる感覚が訪れてしまう。

その結果、「祈るしかない」という思いに至る。

「言葉による意味づけが崩壊したあとに、どう生きるか」

祈りというのは、そうした「言葉で価値を決めることができない地点」でも、なお存在しようとする姿勢ではないでしょうか。

存在そのものは、言葉を超えています。

そこには本来、善悪も意味も価値もなく、ただ「ある」だけです。

生まれることにも意味はなく、死ぬことにも意味はない。

これは動物や自然界の存在と同じ状態です。

でも、人間は「行為する存在」でもあります。

呼吸し、動き、誰かに何かを伝え、物を作り、世界に働きかける。

そして「行為」は、他者や環境との関係のなかに置かれると、必ず意味を帯びます。

言葉、文化、他者の視点、記憶、社会が、行為に意味を与える。

つまり、存在は意味を超えているが、行為は意味を避けられないということです。

この「意味がない存在」と「意味を帯びる行為」のズレが、人間の孤独や虚無感、そして同時に創造性の源にもなっているように思えます。

恐らく、東洋哲学は「ただ存在する」ことを重んじ、西洋哲学や芸術は「行為によって世界に意味を生む」ことを重んじてきたのではないかと勝手に思っています。

この二つの矛盾こそが、実は「人間であることの宿命」とも言えます。

祈りは、この二つを一瞬だけ統合する作用があるのではないか。

「ただ在る」と「何かをする」のあいだで揺れ動く人間が、祈りを通じて「ただ在りつつ、何かをする」状態に入ることがある。

そのとき、行為が意味を持ちながら、同時に意味に縛られないという感覚を両立させます。

また、それは別の視点でも解釈できます。

世の中すべての物が、固有の存在であることは間違いありません。○○人といっても一人一人違うし、森をみても同じ木などは1本も存在していません。

よって、自分の価値観や考えが「他人と同じようである必要はどこにもありません。」ただ、存在している木々達は、そこにいるだけです。

そして、それぞれの固有な木たちの行為が、何かしらに影響を与えます。大きくなった木は隣の小さな木への日光を遮り、成長を阻害し、根を張り地盤を強固にします。

つまり「私の行いすべてが、何かしらに影響を与える」という認識です。

どんな行為も、どんな言葉も、どんな沈黙も、世界のどこかに波紋を広げる。

その波紋は、たとえ意味がないと思っていても、必ず他者や環境に何らかの形で届く。

だから「意味を持つつもりがなくても、意味が生じる」という状態が起こるわけです。

ここに立っているあなたは、

「意味を超えた存在」と「意味を生む行為」の交差点にいて、しかもその「固有性」と「影響」がある。

それはすでに、祈りにも似た態度です。

ただ祈るという行為は、他者や世界への「影響を持たないこと」ではなく、「影響を持つことを知ったうえで、それを手放すこと」だからです。

無と有にある関係そのものです。そして祈りは人間の本質となったと考えることが出来そうです。

もう少し身近な例で話をすると、あなたの前にゴキブリが出たとします。怖いですよね。

しかし、身体的な危機感を刺激されるわけでもなく、この恐怖は頭の中だけにある情報です。

脳内の中だけの現象であって、それは世界そのものではありません。ただ単に「脳内の経験や言葉」を自分と感じ、私はゴキブリが嫌いと言ってるだけですね。

本当にゴキブリが怖いのでしょうか。一体何が怖いのか。そんなこと自体が無であるわけです。

恐らく、社会的にゴキブリは嫌いな物であるという情報を脳がインプットした結果といえるでしょう。

つまり、怖いと感じながらも無であることは本質的に知っている。一見矛盾している様に思いますが、これが人間です。

そういう視点で見ると「時間」という概念まで揺らいで見えます。

時間もまた「脳が作り出した世界モデル」の一部だからです。

私たちが体験している「過去→現在→未来」という線的な時間は、脳が記憶と予測を組み合わせることで作っているストーリーであって、実際のところ「今」という瞬間の連続でしかない。

しかし、自分の頭の中は、過去に飛び未来に飛び、現在でも自分以外の所に飛んでいきます。

「今この瞬間にただ在るもの」というのが私たちの存在の答えです。

そして、意識が外の世界や思考から離れて、身体や存在の深いところに向かうとき、そこには判断や分析を超えた、ただ「受け入れること」や「つながりの感覚」が生まれます。

ここには言葉はいりません。まさに、無と有の間といった所でしょうか。

その「つながり」が私たちは、しばしば「愛」と呼ぶのかもしれません。

全ては、宇宙という時計のパーツのような存在です。

全ては時計で、その中のパーツの一つ一つが動いているけれど、パーツは自分の存在の意味を考えない。

これはまさに、個と全体の関係性を直感的にとらえたイメージだと思います。

全体(時計)が動いていることが大事で、パーツ(あなたや私)が動くことでその全体が成り立っている。

でも、パーツは「自分は何のためにあるのか」と問い続けるのではなく、ただ動いている。

これを人間に当てはめると、私たちは宇宙の中で、その宇宙法則の中で生きている。

そこには、善悪もなくただ法則が存在しているにも関わらず、人間はその意味を考えてしまう。自分というものを考えてしまう。これが良いとか悪いとか言ってもしかたがありません。

人間が言葉を使い始めてから、無である事と、有である事が共存する

その無と有を統合する行為が祈りであるというわけです。

「今日朝起きたこと、空気、水、花──全てが喜びで安らぎに満ちている」

それは、大きな幸福ではなく、説明や装飾もいらない、

ただ「在る」ことに対する深い感謝や、限りない静けさ。

そこに価値や意味を与える必要もない、言葉の奥にある、純粋な「感じる」体験。

それこそが、祈りの本質であり、言葉を獲得し分ける事を始めた人間に必要なのではないかと思います。

祈りは、神に対してでも良いし、ご先祖様でも良い、瞑想でもいいです。

これはスピリチュアルであるとか、何か宗教的な信心をしなさいと言ってるわけではまるでありません。

祈りこそが、言葉を使える様になってしまった人間が、人間であり続ける為にやらなければいけない事なのでは?と思うわけであります。

陰陽が上手く重なり合ってる状態であるといったところでしょうか。少しずつでも祈りの時間が増えればいいですね。

そしてこれらも、頭で考えている事なので、それ以上でもそれ以下でもありません。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次