夢の話

皆様、おはようございます。

星見です。

私はいつも多くの夢をみるのですが、この前とても不思議な夢を見ました。

夢の編集作業です。

目の前に、沢山の夢の断片が映像として沢山あり、それを切ったり貼ったり、まるで映像編集です。

それをとてつもなく早いスピードで行われます。

そして、その膨大な数の夢の素材とスピードがただ流れるがまま、目の前に流れていました。

脳の映像処理を見ているかのようです。

そして、自己を認識した途端に目が覚めました。

「私」を認識した瞬間に目が覚めたんですね。

これはとても面白い体験です。今思えば、いつも「私」を認識した瞬間に目が覚めています。今日の夢もそうでした。

今日の夢は、イベント終わりの打ち上げでした。

周りに知らない人だらけなのですが、何か変な事聞かれて、返答に悩んで、自分を考えた時に目が覚めました。

一体なんなのでしょう。

夢の中で、物語が続いています。そこで自分が自己に目覚めた瞬間に目が覚める。

つまり、夢の中では、物語が先で、自己が後であったという事です。

自己が目覚めなければ、物語はただ流れているだけです。

では、目が覚めた後の現実はどうでしょうか。

おそらく毎日という日常の物語は続いています。そこに自己が目覚めていなければ、それは夢と大差ない。

という結論になるのではと思います。

主語の無い現実世界とでもいいましょうか。

こういった事を体験してしまうと、物語が自分よりが先にあるので、運命というものがあると言われても、否定しずらいですね。

そして、自己を意識した瞬間に目を覚ましているのですが、その自己と呼ばれる物とは一体何かという問いが生まれます。

そんなものは無いと、多くの哲学者や宗教者は言うでしょうが、しかし、実際に、自己を認識した時に目が覚めるわけです。

一応いっておくと、例えば3か月前の体と今の体は、新しく生まれ変わっていますが、未だ私と認識出来ているのは、記憶の連続性であり。その連続性を自己と脳が錯覚しているに過ぎないという話もあります。

つまり、三か月前の私と、今の私は物質的には全くの別人。作り変えられているものであり、それは記憶という連続性により担保されているものです。

しかし、自己を認識した瞬間に目が覚めているわけで、その瞬間はその記憶の連続性を意識しているわけでもなく、単なる「私」という物に目を向けていただけです。

夢は、まだ勝手に展開され、誰のものでもない物語が流れている時に、「私」という主語が入ってきた瞬間に覚醒する。

この「私」というものはどこから来るのか。

普段生きているときに「私」と意識するのは、「私」以外の所から。

「私」が私の内側に目を向けている時は、むしろ私という意識は薄れている。試しに部屋を暗くして、瞑想してみて、体の中を感じてみても、私はどこにも存在しない。

「私」は、私以外の所からやってくるのであろう。

であれば、私が夢の中で、自己を認知した瞬間に目が覚めたというのとは少々おかしく感じる。

なぜなら、自己を認知したと言いながら、それは私以外の所の感触を味わってしまったからである。

それは、「私」を認識したのではなく、関係性を認識してしまっただけとも言える。

ただ単に、「私」という構造を見ることが発生した時に、私は「私」を意識せずにいられない。

つまり、夢の中で私は「私」を意識する瞬間に触れてしまったということ。

これを日常で言うと、社会を意識した時に自分という立場を意識し、ダイエットの広告を見た時に自分の体重を意識するような事で、私は、「私」を意識させる構造に触れてしまった結果、目が覚めたわけである。

私が固定された瞬間に夢の流動性は失われた。

「私」という枠を作ってしまった瞬間に、夢という境が無い世界が保てなくなった。

私が「私」を意識せずとも、世の中は動いていく。そのたびに私は「私」を意識する瞬間がやってくる。

まるで「私」という意識そのものが、物語と物語をつなぐ接合点であるように。

逆を言えば、「私」を意識しなければ、自分の物語も始まらないという事。

怒れば、怒った物語が始まり、恋をすれば、恋をする物語が始まります。

どういう物語を始めたいですか?それとも、ただ過ぎていく物語を観てたいですか?

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