皆様、おはようございます。
星見です。
とどのつまり、人間には神に祈る以外にやることが無いのでは?なんて事も思っている今日この頃、いかにお過ごしでしょうか。
真に自由になるためには、「私」ということも考えなくてはいけないのではないかと思います。だって私が、自由を求めるのだからね。ではでは、私とは一体何かという事になります。
今回はChatGPTに聞いてみます。
私とは?
「私(わたし/わたくし)とは」という問いは、哲学的にも非常に深いテーマです。文脈によって意味が変わってくるので、いくつかの観点から簡単に説明します。
1. 日常的な意味での「私」
- 話し手自身を指す一人称代名詞です。
例:「私は学生です」=「話しているこの人が学生です」
2. 哲学的・思想的な「私」
- 「私とは何か?」という問いは、人間の自我意識・存在についての探究です。
西洋哲学では:
- デカルト:「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」
→ 自分が考えているという事実から、自分の存在を確かめた。
東洋思想では:
- 仏教:「無我」=固定された「私」など存在しないとする考え。
→ 変化する五蘊(体・感覚・知覚など)の集合体でしかない。
3. 心理学的な「私」
- 自我(エゴ)やパーソナリティ、アイデンティティの中核。
→ 自分が自分であると感じる感覚や、他人と区別される自己。
以上引用しました。
私というのも色々な角度から定義されているようです。
私を私と認識しているのには、何があるでしょうか。名前、記憶、周りとの関係性でしょうか。
名前というのは、とても面白いですね。いい名前、気に入ってない名前等、色々あると思いますが、生まれた瞬間につけられたその記号は、自分のアイデンティティとして作用していきます。ある意味、私というものを一番最初に決定ずける行為でしょう。
ただこれは、あくまで記号ですね。うしろゆびさされ組くらいの意味でしょうね。私の名前がゴールデンウィークだからといって、私がゴールデンウィークな訳ではありません。人の思いのこもった呪物のようなものです。
ちなみに、私の腕は私と思ってますかね。それとも腕と思ってますかね。猫は猫と思ってない(劇団四季のキャッツでは、猫は猫同士で隠れた呼び名があるらしい)しかし、隆君は自分の事を紛れもなく隆君だと思ってると思います。
最近「働く細胞」を見たのですが、私の体の中にいる細胞たちは、「私」と思っているのですかね。もし私と思っているのであれば、髪を切ったり、爪を切ったり、体を洗ったり、自分から出ていく物たちはなんて思っているのでしょうか。
また、自分から出る排泄物は、どうして出た瞬間から汚いものに変わってしまうのでしょうか。さっきまで体の中にいたのに。
日々細胞はこの瞬間にも生まれ変わっているらしいじゃないですか、髪や爪は伸び、食事をし排泄をして、体重も増減してますね。どれが本当の私でしょうか。
私なんてないのだ!なんて言うつもりはありません。なぜなら現に私は今私として認識してここにいるからです。
我おもうゆえに我ありです。
話は変わりますが、中学生の時にボブ・マーリーが髪を切らないとか、悪性腫瘍を手術で治さないとか聞いたときは世界は広いなと思いましたね。ラスタの事はあまり知りませんが、そういう宗教も頭で考えると一定数合理的に基づいているのがわかります。
この間、小学生の頃からの友人と当時の先生の話をしました。その先生は、使った鉛筆は捨てずにとっておく、すると、長い時間が経った後にそれを見返し、自分が頑張ってきたことが分かると言ってた事を覚えています。しかしその友人はそんな事言っていないと言います。その先生はだれでしょうか。忘れているだけでしょうか。
また、その友人と昔の話をしていると、必ずどこかにくい違いが起こります。なぜでしょうか。
記憶というものが、如何に曖昧なものであるのかは、年を取る事に年々深まってまります。
私を私とたらしめているものは一体何だろうか。
親子関係はどうでしょうか。友達関係はどうでしょうか。会社の中の関係はどうでしょうか。色々な関係によって私を定義できそうです。が、どれも違いますね。親子関係の私を会社には持ち込めないし、友達関係の私を会社に持ち込めない。どの関係の私が真の私なのでしょうか。
まぁ若い人が一度は悩むアレですね。自分探しってやつですね。今までの関係の中で自分を定義していたが、新しい関係をつくってしまって、自分が見えなくなるアレです。
結論的に、私というものは無いのだ!というのを思う人もいると思いますが、時期尚早というやつです。だってあなたは存在しているでしょ?ではあなたは誰?
私から解放されたら、真に自由なのでしょうか?その時の私は、私なのでしょうか?
この辺の問題については、ハッキリと無意味であると言わなければなりません。はい、今まで言ってきた事に意味なんてまるでありません。意味が無い事をツラツラとすみません。
これを考えている時点で、考えるという行為に囚われているからです。真に自由からは遠のいてしましますね。
今水を飲むとしますね。その瞬間に「私」という概念が入り込む余地がありますでしょうか。「私」という概念が入り込む余地があるのは、何かに失敗した時やこれから変わろうとするときですね。他にもあるとは思いますが。
しかしこれらは、前々から言ってるあるべき姿というやつに支配されている状態です。これでは自由になれません。「私」という定義自体が悩みの根本のようにも見えてきますね。
そもそも私というものに意味を見出す必要なんてあるんですかね?意味のないものは社会に存在してはいけないと思い込んでいるからですか?人に無意味な価値と思われるのが嫌だからでしょうか?
「私」というものを認識しないといけない状態は、普通の状態ですか?皆さんはどういう時に「私」という存在を意識してしまうでしょうか。
私自身、かなり優柔不断を爆発している人間なのですが、色んな事にどーでもいいと思っているので、フィッシュ&ビーフと聞かれても、どっちでもいいから早くしてくれと言いそうです。
元々日本人は結構そういう民族だと思っています。昔何かの研究で、人生で死ぬまでに自分がやりたい事を書き出してくれという質問に、アメリカ人は紙1枚では足りなかったが、日本人は2,3行で終わったなんて話がありましたが、現在はどうなのでしょうか。
そもそも、私という事を意識しなければいけない状況が健全と呼べるのか。例えば、手が痛い状態でもなければ、手の事なんて意識しないでしょう。肝臓を意識する時は、酒を飲み過ぎたときか、癌の時くらいでしょう。私という物を意識しないといけない状況は、何か問題があるのかもしれません。
なので、真に自由である状態というのは、私を意識していない時に起こるのかもしれまんね。