徳積み徳積み徳積み

皆様、おはようございます。

星見です。

今回は、徳積みの大事さについて……ではございません。

色々、徳積みについて話したいと思います。徳を積む行為を否定しているつもりはありませんので悪しからず。

そもそも、徳を積むという行為がなぜ良いのかというと、自分の行いが自分に返ってくるという事を前提にしているからではないかと思います。徳を積んでも悪い事が起きるのであれば、誰もしません。

これはある程度、納得がいきそうな理論なのですが、これはあまりにも複雑で奇奇怪怪である様に思います。作用反作用と分かりやすく物理的に動いてくれればいいのですが、ベクトル方向が複雑なので、自分の行いが、どこに流れているのかを検討するのは、とても難しく思います。

つまり、原因があり、最終的に結果があると仮定した場合、その間にある作用についての真実は、誰にも分からないのではないかと思うわけであります。

例えば、事故があったとします。原因は居眠り運転と断定された場合を見てみましょう。

これは、とても短いスパンにおいて原因と結果が出ている状態であります。しかしもう少し長いスパンで見てみると、そもそも、なぜ居眠り運転をしてしまうようになったのか、なぜその時間に家を出たのか。などを考えると、どこに原因があるのかが分かりません。

また、原因と結果の間となる作用についても、原因が過去に遡ろうとすればするほど、遡れる事が可能となります。

結果、先祖や前世などの話に結局行きつくしかありません。

また、良い行いをすれば、良い事がおこるという前提について、そもそもの良い行いは誰が決めるのかが重要です。

それは誰にとって、良い行いなのかという事です。

事故の場合は、安定した社会を脅かす存在が悪であるならば、居眠り運転などは、社会にとってダメな行為と考えられるわけですね。しかし、良い悪いも、生まれた場所は時代によって変化するものであります。

最初に徳積みを否定しないと申しましたのも、そこに理由があり、徳を積むという行為自体が、良い行為と思われている時代では、当然効果があるわけであります。

そんな事を考えていると、良い事がコロコロ変わる世の中においては、それに見合った徳の積み方というのを実践せよ。という事に繋がります。

中には、世の中が変わっても変わらない正しさがあるとお考えの人もいるかとは思いますが、それは果たして本当でしょうか。と問いたくなります。

1億年後もそうですかね。

人間社会が終わった後もそうなのですか。

などと屁理屈を言いたくなる性分です。正しさとは、あくまで現在の人間にとって正しいが基準となっています。

昔の両親に対する徳の行為と、現代における両親に対する徳の行為は同じでは無いと思います。

結局事故が起こったが、それによって儲かっている企業などもあるよねとか、あまりにも色々ありすぎて、そもそも1億人をこえる社会で、ここまで、着る服や食べ物など多くの物が世界と繋がって先が見えない世界で、どうやって徳を構築するのかは非常に難問だと思います。

前世は、理屈的には成立します。ただこれは、私も含めほとんどの人が覚えていないので、意味がないと思っております。意味がある人には意味があるが、意味がない人にはまったく関係のない話です。

ここで、私の意見を唐突に述べますと、今この瞬間しかないと思っています。元々映像系の仕事をしていた経験があるからなのかもしれませんが、パラパラ漫画のみたいな今この瞬間の連続でしかなく、そこに意味はないと思っています。勝手に意味を与えているのは人間なので。

つまり、人間が色んな事に意味を与えている社会のなかだけで通用するのが、徳の理論になります。そして、徳の理論が強固に発揮できる人間社会のスケールというものが存在していると思えてなりません。

人間社会が少なすぎても徳社会は作れないし、今ぐらい人数が多くても無理、またここまでグローバルになっても厳しいと考える方がいいのではと思います。

良い事をすれば良い事が返ってくる前提といいました。

しかし、良い事は人間が決める事であるといいました。

すると自然と、良い事が無い人にとっては、徳が足りないという結論にしか至りません。

大谷翔平に対して、前世どれだけ徳を積んだら今世あれだけ成功できるのかみたいな話が存在しています。

そこには、成功=お金、名声、能力という先入観が存在しています。つまり、お金、名声、能力などがある事が良いという前提があります。

ハンマー投げの室伏さんも、同じくらい能力が高い可能性がありますが、野球というスポーツを選ばなかったばかりに、室伏さんの前世が大谷さんの前世より徳が低いのか?とも考えられます。

という事は、徳が高いから野球を選んだことになるのですかね。

実際に、本当に自分が幸せなのかどうなのか当人にしか分からず、また本人も幸せを理解しているかは不明です。

また、大谷選手を徳があると思う行為は、何と比べているのか?とも思います。結局徳というのは、人の判断基準でしかない内申点みたいな事なのでしょうか。

確かに人に良い行いをすれば、それが返ってくる可能性は全然あります。むしろ、積極的にいい人をした方がいいです。それは、それを前提に世の中の構造を立てているからであり、当然嫌な奴より、良い奴の方が付き合いやすいでしょう。

また前世などの話は、人間の公平性を担保するために、前世などの話と、徳の話などがくっ付いた可能性は否定できないですね。

人生は当然苦難に満ちておりますが、それも人によって違う事をどう説明できるのかという問題に直面します。

つまり、徳が低いからあなたの身分が低いという事にしないとマズイでしょう。支配する側の理屈です。

当然、徳を重視した国家は過去に失敗した例は実在しているので、何とも言えなにのですが。徳社会というのは、コネの温床となり、結局中枢が腐っていくという歴史を目の当たりにしました。しかし、それさえも本当の徳ではないのだという案は分かります。

しかしそれは、徳、本来が持つ、自分の行いが自分に返ってくるという特質がそうさせるのであります。

つまり、堕落した王朝を作ったのも徳であり、ただ単に盛者必衰の理を表しているにも関わらず、徳を物事に尺度として使う事で、永遠に真実の徳を見つけに行かなければいけません。

もう勘の良い人は分かると思いますが、徳とは、欲望の世界なのではないでしょうか。

自分の行いが自分に返ってくるという前提がある以上、その行為に欲望の影を消し去る事は出来ないし、徳を積みたいという欲望がそもそも解消されることはありません。

つまり、問題は欲望の方にあるのであれば、徳積みはその表層を行き来きするものとなり、徳を積んで良かった経験がさらにその徳を積みたいという欲望をより強固にしていきます。

そしてその欲は、現在に留まることなく、前世から未来を跨ぐ、悠久の旅をすることになるのです。

私は、起こった問題と、徳が有る無いには、関係がないと考えます。

つまり、徳が無いから問題が起こるのではないし、徳があるからお金持ちになったりするものではないという訳です。

お布施なども、徳が高い行為だと思っていません。

お布施をする事により、自らの欲望を抑えたり、その欲望の本体を手放す事に意味があるのだと思っています。自分にとって良い事が起こる為に、お布施をする行為はむしろ、欲を倍増させる効果すらあると考えます。

私は徳を積む言葉に問題はあれど、行為自体は、悪いものではないと思っています。

それは、社会が必要としている側面があるからですが、それだけではありません。

それは、価値判断の多様化は、いつしか人間に気づきを与えるものであるからです。

その価値判断自体が、人間の持っている人間の欲望であり、それらから自己を見つめる行為に価値があると思っています。

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