経験的な幸福は、幸福の死骸

皆様、おはようございます。

星見です。

ショッキングな言葉を使いました。

私が言いたい事をAIに言葉にしてもらった図です。これが結論ですが、これを説明していきます。

思考的幸福(意味・理解)
   │
   │ ← 交点(在ることの歓び)
   │
身体的幸福(感覚・没我)

この交点において、幸福は過去にも未来にも属さない。
ただ「この点が一致した瞬間」にのみ、完全な幸福が現れるという意味です。

身体的幸福とは、身体感覚である「今ここ」に根差した意識。

思考的幸福とは思考からくる、「今ここ」から距離をとり、時間軸や抽象へと意識を拡張する行為。

つまり、人間の意識は一度に両方を最大化することができない。

だがこの「相反性」のある関係は、決して「敵対」しているわけではない。

むしろ、思考が極まる事によって、飽和された状態において、人は身体へと還り
身体の沈黙の中で、また言葉が芽生えます。

多くのスピ系の人は、これを神の声として勘違いしていきます。

大事なのは、どちらか一方だけを選択すると、人間の心は裂けるという事。多くの精神病の原因を私はここに見ています。

そして、ここから離れられないのが、人間としての制約であります。

では幸福とはなにか。

これが幸福であるという意味付けは、幸福である事ではありません。

これを幸福であると意味付けた瞬間に、それは現在から取り残され、「記号の世界に閉じ込めてしまう行為です」

経験的な幸福は、幸福の死骸であると言った意味はここからきています。

家族で生活をしていて、幸せだなと思ったとします。

その瞬間、その生活が幸せであるという記号に変換されます。

しかし人生は思い通りに行かず、様々な事が起こった時に、その記号と生活がイコールで結ばれなくなり、幸せでないという結論にいたります。

ここで言いたいのは、幸福であるという事は、幸福であるという意味を手放す事であります。

これは、幸福であるとただ感じればいいそれだけです。いちいち意味付けをしない。

誰にも名づけられず、記録されず、再現もできない、
ただ一度きりの、存在のゆらぎそのもの

一期一会であり、刹那に生き、無常である。いつも幸せだと思うというのは、そういうもんです。

思考的な感覚に触れすぎず、身体的感覚に触れすぎない、なんかある程度で十分です。

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