皆様、おはようございます。
星見です。
前回の続きです。
言霊と事霊を統合させると、本当の言霊のいみが見えてくるのでは?ということで終わった気がしますので、その続きです。
統合させると「こと」というものを考える必要がある。
「こと」とは一体何か。
これを出来事の単位として考える。「こと」は世界における意味のある出来事の単位として捉える。
言霊は、その萌芽であり。事霊はその現実に現れたものとして展開される。
例えば、まずまだ何も決まっていない不確定なものがあるとする。
潜在的に何にでもなれる可能性がある。
それを、形として立ち上げたものが「言」
それが現実に展開されたものが「事」である。
「こと」とはこれらの事を指す単位であるという意味だ。
世界は、多くの「こと」が織り交ぜられ展開されている。
そう捉えると、「言葉」自体も結局、流れの中の一部に過ぎない。進行している出来事の一部でしかない。言葉を使い言うことで、現実に起きている流れに参加しているのだ。
起きている事は、決して偶然ではなく、「言の延長として展開されている」
このように進むと、原因と結果というものは存在しておらず。
「こと」という一つの流れの中に、「言」と「事」という両端があるだけである。
では、やはり言ったことが現実化する言霊で正しいのでは?という疑問にぶち当たる。
しかし、これは完全なる因果関係で出来ており、そもそも原因と結果は存在していないと言っているので当てはまらない。
もう少し詳しく見てみよう。
「無理無理。出来やしない」⇒「行動が委縮する」⇒「失敗する」
これが、元来言われているやつだ。
これが積み重なると、確かに言葉が現実を作ったように錯覚してしまう。
しかし、これを出来事側の視点から見てみよう。つまり「事」側からの視点だ。
すると、「すでに起きつつある流れがある」⇒「起きる流れに乗っ取った言葉が選ばれているだけである」
そもそも「失敗する流れがある」のが先であるということだ。
あれ?と。時間軸が逆じゃね?とそういう理解も出来る。
しかし、これもあながち嘘ではない。
元々、日本語ではかなり時間軸はあいまいだ。先の大戦というと第二次世界大戦と過去のこと指すが、先という未来の言葉を使う。
さっき、私の前を人が通ったけど、隣のマンションは2年前に建った。
今度、私は山に登るが、今度のオリンピックは楽しくなかった。
やはり、元々の日本人は時間軸を直線状だけで考えてないのではと思う。
私のイメージではこうなる。
今この瞬間に「こと」がある。片方から見ると「原因は言葉にあり」、片方から見ると「出来事に原因がある」
こういう風に捉える事もできる。
またそれら全てもまたひとつの「こと」である。
この「こと」という単位は無数にあり、大きさも大小さまざまである。
これは別に特別なものではない。
皆さんが日頃から感じているあれと良く似てる。最近なんか変だとか、流れが悪いとか。これはつまり「事」から見ている。
この時、まだ人は大きな事件に遭遇していなくても、すでに「事」の変化を感じている。
そして、これを迷信というのは簡単だが、事情は複雑だ。
天候、調子、関係性、パターン認識、空気感など、様々な情報を処理して導き出している。
昔の人は、それを兆しや虫の知らせとして、「事」の変化を敏感に重んじた。
ここで大事な事がある。それは次回。