親鸞聖人のカッコいい所2

皆様、おはようございます。

星見です。

この話を現代だとどうなるのか。

現代風に解釈するとなれば、輪廻や前世、徳と言った概念を使わずどのように説明しなければなりません。

それをする前に、

まず、私的な仏教解釈では、業と縁が確率的に合わさった時に、条件が整うという感じがしています。

ここで面白いのは、別に良い人だから1000人殺さないのではありません。

逆を言えば悪い人だから1000人殺すのでもないのです。

なんと美しい論法でしょう。

つまり、良い縁と良い業を積み重ねて良くことが徳を積み上げる事につながるのです。

ちなみに私は仏教的な教養は備えていませんので、あまり本気にしてはいけません。

これはとても筋が通ってる様に私には見えます。

ただこれは、中々受け入れが痛いものでもあるのも事実です。

それは、自分というものの定義を出来ない事を意味します。

私は今の所、人殺しも盗みもしませんが、条件が整えばすることを意味してます。

であれば、私は〇◎であるという定義自体に意味なんてないという話です。

これは簡単に言うと、「考えすぎるな」と言ってる様に感じます。

人間は、なぜ?という問いをどうしても持ってしまいます。

お金が儲からない。恋人に浮気された。毒親の元に産まれた。はたまた宇宙の仕組みまで。

このなぜ?によって文化的な進化を遂げていますが、同時に苦しみから逃れられないというジレンマを抱えています。

なぜ死ぬのか。なぜ宇宙があるのか。なぜ私なのか。なぜなぜ。。。

しかも考えてみて下さい。

私たちが正気でいられるのも、長くて人生80年そこら。

そして、この小さい肉体における脳というもので、どこまで解析可能でしょうか。

無限に問う能力と有限でしか扱えない構造がここに存在しています。

人間が経験できる範囲を超えたものを、
理性だけで完全に理解しようとしても限界があるというわけです。

計らいから離れよです。

どこまでなぜ?を追求するのも構いません。

しかし行き過ぎたなぜは人を不幸にするのかもしれません。

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